全国実業団女子チームの絶対的王者として君臨するチームを
マネージャーという立場で支える小松佳緒里さん。
トップチームのマネージャーならではの重責と最高の栄誉とは?
――中学生から全国大会に出場するなど、プレイヤーとして活躍されていたとのこと。バスケットを始めたのは何がきっかけだったのでしょう。
父が地元の小学校でミニバスケチームのコーチをしていたんです。姉もそのチームに入っていたので、練習へ向かう父と姉について行き、遊び感覚でバスケットをやるようになりました。チームに加入したのは小学校3年生のとき。そこからバスケ漬けです。
――おだやかで優しい雰囲気の小松さんからは、コート上で激しいプレーをするイメージがなかなか沸かないのですが…。
身長もバスケット選手にしては157cmと低いですしね(笑)。でも、こう見えて、負けず嫌いなんです。背が低く、スリーポイントシュートが苦手という弱点をなんとか克服したくて、自分の強みでもあるスピードを必死で鍛えていました。得意技はドライブ。ドリブルでディフェンスを一気に抜いてゴールへ向かう。シュートがビシッと決まったときは最高に気持ちいいんです。
――高校時代は司令塔としてインターハイやウインターカップに出場。そして、東京医療保健大学へ進み、さらなる活躍を期待されるなかでアクシデントに見舞われることに。
大学は、実力のある選手が大勢いるチームで、私は幸運にも入学してすぐの新人戦で試合に出ることができたんです。「憧れの代々木第二体育館のコートに立てた!」と喜んだその翌月、練習中に左足のアキレス腱断裂というケガを負いました。それでもなんとかリハビリに励んで半年後に復帰。と思ったら、今度は右足のアキレス腱を断裂してしまって。さらにリハビリに時間がかかることを考えると、このままプレーを続けることは無理だと悟りました。
気がかりだったのは、今まで応援し、東京へ送り出してくれた両親や恩師のこと。期待に応えられず申し訳ない。その思いでいっぱいでした。自分のこれから先が見えないでいるとき、チームで新たなマネージャーを立てる必要が出てきたんです。バスケを辞めるか否かという二択に、マネージャーという選択肢が現れて。そこで実家に帰省したとき、両親や恩師に相談したんです。みんなの答えは一致していました。「選手だろうと、マネージャーだろうと、佳緒里が一生懸命に向き合っていることを応援するよ」。この言葉で自分の選手としての経験をマネージャーという立場で生かしてみようと決意できたんです。
――大学3年からマネージャーとして活躍し、卒業と同時に女子バスケの絶対王者と呼ばれる「ENEOSサンフラワーズ」に入団することに。
プレイヤーだったら到底、手の届かないことでしたから、ENEOSから打診があると聞いたときはびっくりしました。東京医療保健大学でのマネージャー時代、コーディングという映像による分析に力を入れていたんです。その知識と経験が目に留まったらしいのです。当時の私は、大学を卒業したら秋田に帰って医療関係の仕事に就こうと就活に力を入れようとしていた矢先。まさかの話に、「自分なんかに務まるのか」という不安もあり、またまた、地元で相談会議。そのときに恩師から頂いた言葉は「大変だと思う道、今しか選べない道を行け」。再び、背中を押してもらい、話を受けさせて頂くことにしました。
――マネージャーとして、どのようにチームと関わっているのでしょうか。
他の選手と同じように寮で生活しながらチームのサポートを行っています。選手は、朝の6時頃から自主練をはじめるのですがそれに合わせて私もコートへ入り、ボール拾いやパス出しなどをします。試合中はビデオを使って相手チームのプレーを分析し、ハーフタイムなどにその情報を共有。試合後はさらに選手一人ひとりの分析も含めてデータにまとめ、コーチに渡すなどしています。
――選手をマネージメントする難しさややりがいはどんなところに感じますか?
チームに入って驚いたのは、みんなが絶対に妥協しないこと。プレーにしても、食べ物にしても、「なぜ、これは必要なのか」を徹底的に追求するんです。だから、あいまいな態度も言動も許されない。例えば、食事にしても、「好き嫌いなく食べてください」では通用しません。「この食べ物にはこういう栄養素があり、摂取することで、こういう効果があるから必要。代わりになる食べ物はこれ」といったところまで説明する必要があります。私は栄養士の資格を持っているのですがその知識も常にアップデートする必要がある。そうした責任感もこのチームで養われました。
また、見えないところで悩み苦しむ選手の姿もあります。プレッシャーで食事が喉を通らなかったり、減量、増量に苦しむ選手も。バスケットというチームスポーツでありながら、選手一人ひとりは実に孤独。それは私が大学時代に痛いほど経験したことです。だからこそ、プレーのこと、身体のことなど、あらゆることで悩みを抱える選手の変化にいち早く気付くのもマネージャーとしての役割だと思っています。
――「プラチナ・メダル」にちなんで、小松さんにとって自分に“最上級の栄誉”を贈りたくなるような出来事はどんなことでしょうか?
2019年3月、チームがWリーグ史上初となる11連覇を達成した瞬間に立ち会えたことです。勝って当たり前なんてことは決してなく、選手一人ひとりがプレッシャーに打ち勝って得た前人未到の快挙に心が震えました。と同時に、ケガを負ってチームに加われず疎外感を覚えていたときも、地元に帰って就職しようと考えていたときも、バスケットに関わる道を与えられ、今の自分があることが感慨深くて。背中を押してくれた両親や恩師に心から感謝しました。
――小松さんにとって、ささやかなご褒美とはどんなことなのでしょうか。
コンビニの新作スイーツを食べること。ささやかすぎますか?(笑) 願望としてのご褒美なら、朝、ゆっくりと起きて、銀座にブランチを食べに出掛けたいです。それこそ、プラチナのジュエリーを身に付けてお洒落をして。銀座やプラチナが似合う女性って素敵だなと思うので、いつかご褒美として実現させたいです。
――チームを支える存在として、今後の目標を教えてください。
実は、今年3月のWリーグでは準優勝という悔しい結果になってしまったんです。目標は、王者復活!それしかありません。今シーズンはケガ人が多く、個々の選手もチームもとても苦しい状況にあります。だからこそ、私にできることは何かをイチから考えるいいチャンスだと思っています。選手一人ひとりが最高のパフォーマンスを発揮できるようサポートし、大勢の人の心を動かすような戦いをお客さまに見てもらいたいです。バスケはみんなが一緒になって熱くなれるスポーツです。プレーするもよし、観るもよし、応援するもよし。好きなスタイルで楽しんでみてください。
1994年生まれ。秋田県出身。小学校3年生でバスケをはじめ、
中学時代には全国大会に出場し、ベスト16。
地元・秋田の名門、湯沢翔北高校では下級生の頃から主軸を担い、
司令塔としてインターハイ、ウインターカップに出場。
その実力を買われて東京医療保健大学に入学。
活躍を望まれながらケガを負い、大学3年生でマネージャーに転向。
2017年、ENEOSにマネージャーとして入団。
※2021年7月取材
プラチナ・ジュエリーの国際的広報機関プラチナ・ギルド・インターナショナルが、貴金属の最高峰であるプラチナを500 グラム以上も使用して製作した特別な宝飾メダルです。
素材 | Pt999(純プラチナ) |
---|---|
総重量 | 565.84グラム (留金具2個含む、リボン別) |
サイズ | 直径 880 ミリ、厚さ 6 ミリ |
参考価格 | 約 1000 万円(非売品) |
素材: Pt999(純プラチナ)
総重量: 565.84グラム (留金具2個含む、リボン別)
サイズ: 直径 880ミリ、厚さ 6ミリ
参考価格:約1000 万円(非売品)